北野武
なんでもやっていいよという枠のない世界にあるのは、自由ではなく混沌だ。
お笑い芸人、映画監督、画家、作家、俳優など、その多様な活動が国内外で評価される北野武は、その独自の世界観を発信し、世の中の多くの人々に影響を与えています。
例えば、あることないことをマスコミに書かれ、世間から厳しい批判を受けた時でさえ、たけしは「悪口を書かれたときでも、相手が笑うしかないくらい破天荒なことを言ってしまえばいい。笑ったらこっちの勝ちだ」と言いました。(1)
破天荒さも芸のうちと言えるお笑い芸人だからこそ、そのようなことが言えるのだと思われるtえかもしれませんが、人の価観にとらわれない発想を持てるようになるまで、たけしは深く苦悩し、そして大きな決断をしていたようです。
北野武について語る上で母、さきの存在は大きく、彼は母との思い出を著書やテレビ・雑誌などのインタビューでも語っています。
さきは、貧乏は教育によって断つことができるとし、「貧乏というのは教育がないから貧乏であって、教育があれば、いいところに勤めてお金をもらうことができる」と、子供たちに対して徹底的に教育をしたそうです。
「大学は工学部に入学してエンジニアになりなさい」と言われ、選択の余地なく大学に入ったたけしは、「結局のところ母親のいうことに従って、自分はこの社会という群れの中で生きていくものだとばかり思っていた」と、当時を振り返りました。(2)
しかし、親の道徳観に従って生きていくことを窮屈に感じ、その道徳感から飛び出したいと、たけしはある日、さきに言われて通っていた大学を退学します。
大学を中退し、他人の価値観ではなく、自分の価値観に従って生きていくという決断は、たけしにとって自殺するにも値するような大きなことだったそうで、そのときの気持ちをたけしは、次のように表しました。(3)
「今でも忘れられないのは、そうすると心に決めたとき、見上げた空がほんとうに高くて広かったってことだ。ああ俺は、こんなに自由だったんだなぁって思った。」
“芸人は最低の職業である”というのが北野家にとっての常識で、さきは、人様の見せ物になる商売なんて恥さらしであり、ましてや親が自分の子どもを芸人にしようとするなんて、世も末ではないかとも言っていたそうです。(4)
そういった価値観の中で育ったたけしは、自分たちの作りだした常識という概念に縛られて凝り固まった世間を、違う視点で眺めて緩めるのがお笑い芸人のあるべき姿であり、例えるのであれば、「王様が裸なのは見ればわかるのに、誰もそれをいわないから、王様は裸だとツッコむ」これがお笑い芸人の役割ではないかと述べています。
自由に生きるということは、今までの価値観から抜け出して自分の力で生きていくことだけではなく、その決断に責任を負うということまでが含まれているのではないでしょうか。
たけしは、そもそも自由にやってもいいと言われても何をしたらいいのかわからない、自分の人生に責任を持てない若者が増えているとして、「自由というのは、ある程度の枠があって初めて成立する。なんでもやっていいよという枠のない世界にあるのは、自由ではなく混沌だ」と言いました。(5)
個性を育てるという名目と、社会での経験や知識のない人に、すべて自由になんでもやっていいということは、無責任でしかありません。
漫画家で「ドラゴン桜」の三田紀房氏は、おもむろに自由を与えても個性は育たないと次のように述べています。(6)
「子供に中途半端な自由なんか与えるべきではないし、ゆとり教育なんてもってのほかだ。子ども時代には徹底した詰め込み教育をするべきで、個性を伸ばす教育なんか、一刻も早くあきらめるべきだ。個性なんてものは、親や教師がタッチせずとも勝手に育っていく。」
北野武は自分の価値観で生きていけるならば、のたれ死にをしてもいいと覚悟を決めたからこそ、自由な生き方を手に入れたといっても過言ではありません。
どのようなことにも縛られず、自由に自分の好きなように生きていきたいと願う人は大勢いますが、自由になるためには必ず責任がついてくることを念頭に置いておく必要があり、それを引き受ける覚悟がなければ、自由になる資格はないのだと肝に銘じておく必要があるのです。
1. 北野武「超思考」(幻冬舎,2011) kindle65
2. 北野武「超思考」(幻冬舎,2011) kindle 746
3. 北野武「新しい道徳」(幻冬舎,2015) kindle1260
4. 北野武「新しい道徳」(幻冬舎,2015) kindle 87
5. 北野武「全思考」(幻冬舎,2009) kindle 877
6. 三田紀房「個性を捨てろ!型にはまれ!」(大和書房,2009) kindle 1186