ストーリー

One Life, One Thought
Vol. 97

池田理代子

『女の幸せ』も、『男の幸せ』もない。あるのは『自分の幸せ』だけ

2018/11/01

Illustrated by KIWABI - Riyoko Ikeda

日本ばかりか、アジアやヨーロッパなど世界中で女の子たちが熱中した「ベルサイユのばら」の作者として知られる池田理代子さんは、フランスの歴史や文化を日本で広めた功績が認められ、2009年にフランス政府から最高勲章であるレジョン・ドヌール勲章を贈られました。理代子さんが漫画を描き始めたのは、今から約50年前の学生時代に遡ります。

↑フランスの最高勲章を贈られた池田理代子さんが、漫画を描き始めたのは今から約50年前(リンク

理代子さんは高校を卒業後、東京教育大学(現筑波大学)文学部に入学しましたが、大学は全学ストライキとなり授業どころではなく、彼女も同級生とともに大人社会への批判を繰り広げるようになりました。そして、大学一年生の時に反抗心から置き手紙だけを残して親元を飛び出した後、自活するためについた仕事が漫画家だったのです。

人と会って仕事をするよりも、一人で作業する仕事が自分には合っていると考えていたこともあって、彼女にとって漫画家の仕事は性に合っていたものの、その生活は毎日「ひもじい」と日記に書くほど大変で、パチンコで生計を立てていたこともあったといいます。

↑漫画家としての仕事は性に合っていたが、毎日「ひもじい」と日記に書くほど大変だった(リンク

24歳の時、フランス革命の起きた時代のベルサイユを舞台に歴史に忠実に描いた「ベルサイユのばら」を発表すると、それが社会現象になるほどの大ヒット作品となり、理代子さんは人気漫画家として不動の地位を得ます。

しかし、40歳の時に更年期障害と診断されたのきっかけに彼女は自分の人生について深く考える日々が続くようになったと言います。そして、子どもの頃からの夢であった声楽家になるために、漫画家の活動を離れ、音楽大学へ入学することを決意しました。その当時の気持ちを理代子さんは、次のように述べています。(1)

「私にとっていちばん怖い後悔は、あの時やろうと思えばできたのにどうしてやらなかったのかというものです。というのも、人間の一生のうち、自分がやりたいことにチャレンジできるチャンスというのは、一回か二回巡ってくるかこないかだと思うのです。」

↑「自分がやりたいことにチャレンジできるチャンスというのは、一回か二回巡ってくるかこないかだと思うのです」(リンク

ある研究結果によると、実際に子供の頃から夢だった職業についている人は6人に1人しかいないのだそうで、実際、大人になってから夢を追いかけるのは「無謀なこと」であり、夢を諦めるのは「仕方のないこと」というのが世間一般で思われています。

しかも、子どもの頃から長期間に渡って訓練を受けていないとなれないと考えられている職業も多くあり、理代子さんが目指すと決めたオペラ歌手も、50歳を過ぎた頃には引退を考え出すような職業です。

それを知っていながら、47歳で音楽大学に入学した理代子さんは、夢に向かうことはただ自分自身に向き合い続けることなのだとして、次のように述べていました。

「自分の夢に優先順位をつけることは、それ自体大変に難しい作業であるし、また、何かを選ぶということは何かを振り捨てるということでもある。そういった選択が、自らの意志や望みのままにはならない人々のほうが、現実的にはきっと多いのに違いない。けれども、夢とは志の高さのことである。」(2)

↑「夢に優先順位はつかない。夢とは志の高さのことだから。」(リンク

日本の高度経済成長の真っ只中に漫画家として活躍していた理代子さんですが、その時代は「子どもにとって漫画は害悪」という価値観があった時代でもあり、たとえ漫画家としての実力があったとしても、周りからは鼻で笑われるような日々を過ごしていたそうです。

しかも一緒に仕事をしていた出版社の正社員は全てが男性で、その一方で同じ会社内でもエリートと呼ばれる大学を卒業した女性は正社員になれなかったのです。そういった状況に違和感を覚えていた理代子さんもまた、長い間、男性社会のなかで負けずに数々の実績を積み重ねてきました。

こうした経験の中で理代子さんがいつも考えていたことは、「私の幸せは私が決める」ということ。「女の幸せというものもなければ、男の幸せというものもない。あるのは『自分の幸せ』だけ、幸せというのは絶対的な主観だと信じていましたね」という理代子さんの言葉にも、その強い信念が表れています。(4)

↑「女の幸せというものもなければ、男の幸せというものもない。あるのは『自分の幸せ』だけ」(リンク

若くしてヒット作に恵まれ、人気漫画家の道を歩んでいた理代子さんは周囲からの嫉妬や世間からの誹謗中傷に、心が傷ついていた時期もありました。

しかし、世間の常識や社会の動向のような、頭で考えても納得できなかったことの多くが受け止められるようになると、結局一歩進めるかどうかは自分自身の問題だと気づいたのだそうで、理代子さんは次のように述べています。

「自分が一生懸命に好きであるということだけが大切なのであって、その想いが相手に通じないというのなら、それも運命なのだ。何かを成し遂げたいと望みながら、誰かを愛しながら、なおかつ自由であるということがあり得るとすれば、それはまさに『何も一切期待しないこと』しかない。」(5)

「異端であることを恐れることなど少しもない。踏み外すべきではないのは世間の道徳律ではなく、自分自身のうちなる道徳律のほうである。」(3)

↑「自分が一生懸命に好きであるということだけが大切」(リンク

世間の評判や、女性はこうあるべきというような決めつけられた生き方を良しとしなかった理代子さんは70歳を過ぎた今でも、漫画家としてだけでなく、オペラ歌手としても活動を続けています。

多くの人がどこかで夢を忘れられずにいて、いざ行動するチャンスが巡ってきたとしても一歩が踏み出せずにいるのは、自分自身の人生を決めていく中で、いつかその選択を後悔してしまうのではないかという恐怖心が湧き上がってくるからかもしれません。

しかし、自分自身と真剣に向き合った上で、自分の判断でその道を選択したならば、苦境にあっても、それを受け止め、乗り越えることができるでしょう。そうして、志を高く歩み続ける人は、たとえ不器用な歩みであったとしても、最期の時に自分の歩んできた人生を愛おしく思えるのではないでしょうか。

参考書籍)
1. 池田理代子・平田オリザ等「続・僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」(文藝春秋,2018) kindle 234
2. 池田理代子「ぶってよ、マゼット―47歳の音大生日記」(中央公論新社, 1999) p275
3. 池田理代子「せめて一度の人生ならば」(海竜社,1991) p11
4. 池田理代子・平田オリザ等「続・僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」(文藝春秋,2018) kindle 376
5. 池田理代子「ぶってよ、マゼット―47歳の音大生日記」(中央公論新社, 1999) p22