山口 小夜子
雨だって風だって何でも着られるの。
大阪で万国博覧会が開催され、日本が右肩上がりの経済成長を謳歌していた頃、「色白・黒髪・切れ長の目」という、日本人形のような容姿のモデル山口小夜子は、1972年、パリ・コレクションにアジア系モデルとして初めて起用されたことをきっかけに、世界のトップモデルとしての階段を駆け上がりました。
さらに1977年には、ニューズウィークが選ぶ「世界のトップモデル6人」にアジア人として初めて選出されています。
大阪万博で、「笑いのパビリオン」を企画した広告評論家・岡田芳郎氏は、著書『広告の花 江戸から時代を貫く広告の本質』の中で、「広告とは新しい時代を表現し、人々を目覚めさせ、見たことのない別世界へ駆り立てるものだ」と定義していますが、小夜子の活躍は、それまで西洋文化への憧れに染まっていた日本の広告業界が、日本の美を再認識する大きな転機を作り出しました。
小夜子は、13年にわたり資生堂と専属契約を結んでいましたが、60年代に彼女をイメージキャラクターに起用し、欧米に広告を打った香水「禅」は、海外で大好評となりました。また80年代には、一緒に仕事をしたいと切望していたフランスのイメージ・クリエーター、セルジュ・ルタンス氏と契約を結びました。2人のコラボレーションによるポスターの数々は、資生堂というブランドの枠を超え、日本の美の素晴らしさを全世界に広め、さらには海外からの高い評価は、逆輸入という形で日本でも知られ、日本人に自信を取り戻させたと言われています。
20世紀を代表するデザイナー、ココ・シャネルは、ペンと紙を使って服をデザインするのではなく、仕事中はいつも首からハサミをぶら下げて、直接モデルに布をあてがいながらハサミとピンを使って洋服を仕立てていたと言われ、「ファッションはドレスだけのものじゃない・・・考え方、つまり生き方と関わっているのよ」という言葉を残していますが、小夜子も、どんなに値段の高い服であっても、容赦なく改造を施し、表現に対して一切の妥協を許さなかったと言われています。
また、小夜子は服作りを通じて創作の真の意味を理解し、ファッションの世界が音楽や身体的表現、アート、グラフィック、建築、そして社会現象など、生活全般に係るあらゆる要素が絡み合っていることに気づいたとも語っています。
小夜子は、モデルとして第一線で活躍しながら、舞台や映画などにも挑戦していきます。『オペラ三人姉妹』でフランス批評家協会最優秀作品賞に選ばれるなど、表現者としても賞を数多く受賞し、さらに50歳を過ぎてからは、DJとしても活躍の幅を広げ、藤乃家舞、宇川直弘と「SUNZU」を結成し、舞やファッション、音楽、そして映像などの様々なアーティストとコラボレーションしたパフォーマンスを展開していきました。表現の場が次々と増えていくことについて、小夜子は次のように述べています。
「一つのものを追及して、そこに留まって、それを極めるという生き方も素晴らしいと思うのだけれど、実は一つのものを求めると、どうしてもこちらもあちらもという様に、様々なものが必要になっていきますよね?(中略)必要になったものが、自分の中にどんどん溜まっていく…。そうして、それを吐き出すときにどんな吐き出し方をしてもいいんじゃないかなって思うのです。」
小夜子は自らを、「ウェアリスト(着る人)」と呼び、洋服だけでなく映像も空間も、「着る」ことが出来ると語り、モデル業に留まらず、女優、ダンス、舞台衣装のデザイン、文学、音楽、映像と様々な分野を「着る」ことができる自由について次のように語っています。
「私は映像を背景に舞っているのではなくて、映像を着ているの。雨だって風だって何でも着られるの。」
2015年、東京都現代美術館において、「未来を着る人」というコピーで小夜子の展覧会が開催されました。彼女にかかれば、未来でさえ着こなせるものだったのでしょう。
現代社会で生きる私たちはプレッシャーなど様々な要因で心を浪費し、自信を失いかけています。仕事や習慣など形式に捉われた変わり映えのない毎日の中、「着る」ことに慣れるのではなく、小夜子が体現したように、心の赴くままに着たいものを「着る」というアクションを起こすことで、自信を取り戻す道が拓けるのかもしれません。
『山口小夜子 未来を着る人』東京都現代美術館=編『馬頭琴夜想曲』パンフレット