シャーリーズ・セロン
人の置かれている状況を理解していないのなら批判的にならない方がいい
著しい低身長に特徴づけられる小人症患者、ジョナサン・ノバックの日常生活を追ったドキュメンタリー「Don’t Look Down on Me(僕を、軽蔑しないで)」では、ジョナサンが道行く人に「小さいやつ!」と罵倒されたり、勝手に写真を撮られたりして、苦しんでいる様子が映し出されているように、一般的に人々は見えるものを基準に、その人の内面性を大きく誤解してしまうものなのかもしれません。
わたしたちは自分とは異なる人々に対して、無意識に批判的に見てしまう傾向があります。映画「モンスター」でアカデミー賞主演女優賞を受賞したシャーリーズ・セロンは故郷のアフリカでエイズが蔓延している原因が、性教育不足のせいであるとばかり指摘され、性教育を学びたくてもタブー視されている状況が考慮されていないことを踏まえて、「人の置かれている状況を理解していないのなら批判的にならない方がいい」 と述べています。
シャーリーズの人生は複雑で、15歳の時にアルコール依存症で暴力的だった父親から身を守るために、母親が父親を射殺するのを目の当たりにしてしまいました。シャーリーズは、この出来事に対して、「重大なことだけれど、自分も娘を守るためなら同じことをしていた」ということに気づき、次のように述べています。
「母のおかげで他人を自分の価値観で決め付けることなく人生を送ることができました。他人の状況は自分にはわからないのだから、良い/悪いで判断しないようにしています。別の角度から見ると、母は私に、自分の人生に責任を持つのは自分自身だということも教えてくれたのです。」
シャーリーズの複雑な家庭を知らずにこの事実だけを聞けば、彼女の母親は恐ろしい人物だという印象をもってしまい、人々は偏見の目で見るようになるでしょう。しかしながら事件の状況を知れば、母親の行動は娘を守るための「正当防衛」だったということを理解することができるため、知っているか知らないかということだけで、人の評価は180度変わってしまうことがあります。
自分の価値観だけで人に対してコロコロと意見が変わることで人を傷つけたり、人からの批判的な意見で人生を惑わされて自分の可能性を制限してしまうことは、シャーリーズに言わせれば、責任感のない人生を送っていることになるのかもしれません。
たとえば、数学では「女性より男性が優れている」というステレオタイプがあります。あるリサーチでは、性別を記入しない数学のテストでは男女の成績に差がないのに対して、性別を記入してしまうと無意識のうちに自分は女だから数学はできないと思い込んでしまい、女性の数学の成績は下がってしまうという結果が出たそうです。このように、自分から偏見を無意識的に受け入れてしまう「ステレオタイプ脅威」という現象があります。
これは、女性は数学が“できない”のではなく、表面的な偏見が女性に数学を“できなくさせている”とも言い換えることができ、偏見さえなければ、女性は能力を高め、女性の数学者はもっと活躍するようになることも想像できます。
実際に、女性数学者のソーニャ・コワレフスカヤは、女性が学問をやることが全く受け入れられなかった帝政末期のロシアに生まれましたが、彼女の勉強を手伝っていた教授はソーニャが女性であることは関係なく、その純粋な数学的能力だけを見て驚き、彼女の父に数学的能力を伸ばすように訴えかけて、後の大成にむすびつけることができました。 (1)
シャーリーズも、「ブロンド美女」という他者が求める印象を自ら破り、映画「モンスター」では13キロ以上太り、まゆげを全部抜き、下品な笑い方や言葉遣いで殺人鬼役を演じ切り、2003年のアカデミー主演女優賞を受賞しました。
さらに昨年公開された映画「マッドマックス怒りのデスロード」では、自分のアイデアでスキンヘッドになって屈強な軍人テュリオサ隊長を演じましたが、シャーリーズはこういったさまざまな役を演じる理由を次のように述べています。
「実際どのくらいの役が、ドレスを来ている女性に用意されているというのでしょう?」
シャーリーズは、それは「キャリアを長続きさせたい」というだけではなく、「いろいろなことをやってみたい」と考えているためだと言いますが、他人から求められるままに従うというよりも、女優としての自分を貫き通すことで、実際に新たな面を次々と魅せる彼女は、人々の目にも当たり前になり、ウォールストリートジャーナルでも、「シャーリーズは外見に頼るような役を避ける女優として知られている」と描写されています。
他人から決めつけられた枠組みだけに囚われてしまうと、可能性を自ら狭めてしまうような悪影響を受けてしまうものですが、シャーリーズのように、それに惑わされずに活躍している人に、「ゲーム・オブ・スローンズ」というドラマでテレビドラマ界のアカデミー賞と呼ばれるエミー賞を受賞したピーター・ディンクレイジという小人症の俳優がいます。
ピーターは、小人症という病気のために青春時代は怒りや苦しみに満ちていたといいますが、大人になってから、偏見をなくすにはただユーモアを用いればよいということに気づき、同僚ともお互いに「ちびすけ」と呼び合うなど、俳優になる前にいた職場でもユーモアがある人気者で、偏見を受けやすい背が小さいという特徴をユーモアで軽く受け流すようになりました。
その後ピーターは多くの人の目に触れるような俳優になり、「小人症」を個性的な魅力へと昇華し、映画「X-MEN フューチャー&パスト」では映画化にあたって、原作では小人症ではないキャラクターにピーターがオファーされ、新しく設定が書き直されるなど、自ら可能性を切り開いています。
実際に、変えることのできない苦難な状況でも、それを「ユーモア」に変えてしまえば、問題に囚われずに、客観的に対処できるようになるといわれています。わたしたちがもし、いわれのない批判や偏見を受けた場合でも、ただそれをユーモアで対処してしまえば、批判や、そこから生まれる偏見など恐るに足りないことなのかもしれません。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」でも、登場するレゴラスとギムリというキャラクターは、共に冒険する仲間であるにも関わらず、物語当初は「エルフ」と「ドワーフ」という長年忌み嫌い合っていた「種族」同士の偏見だけで、お互いを判断し合っていて仲が良くありませんでした。ところが、 物語が進むにつれてお互いを種族ではなく個人としてみるようになり、最後にはお互いをよく知ることで親友にまでなりました。人間関係においても、人を批判的に見なければ、お互いを尊いと思えるまでに可能性は広がっていくことでしょう。
また、たとえ偏見を受けてしまったとしても、シャーリーズやピーターのように自らの行動で他人に決めつけられた浅薄な評価を打ち破ることはでき、新たな可能性を開くことができるため、人の目を気にして、自らの人生の可能性を狭めてしまう必要はありません。
人がなんと言おうが、人生の選択をして責任をとるのは自分でしかないと思えば、他人が決めた可能性ではなく、自分が決める可能性を信じて突き進んでいくことができるのではないでしょうか。