ストーリー

One Life, One Thought
Vol. 23

いわさきちひろ

豊かさとは、平和で、やさしく、美しいもの。

2016/11/03

Illustrated by KIWABI - Chihiro Iwasaki

戦後71年目を迎え、戦争を体験した人たちは減り続け、物にあふれた今の時代、現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪れたオバマ大統領が日本人と握手をしたりハグしたりする姿からも、戦後から大きく時代が変化していることを実感されたている人も少なくないのではないでしょうか。

戦争から戦後の時代を生きた画家のいわさきちひろは、文理書院発行の『人生手帳』の中で、物と引き換えに心の豊かさから離れていく現代人が増える未来を予想して、次のように語っていました。

「どんどん経済が成長してきたその代償に、人間は心の豊かさをだんだん失ってしまうんじゃないかと思います。それに気がついていない若者は多いのでしょうけれど、私はそのことに早く気づいて、豊かさについて深く考えてほしいと思います。」

↑物質的に豊かだが、本質的には豊かでない (リンク)

↑物質的に豊かだが、本質的には豊かでない (リンク)

終戦の翌日、1945年8月16日からちひろが書き始めた『草穂』という日記には、ちひろが戦争が終わったあとの焼け野原をみて、いままでに感じたことのない猛烈な絶望を味わっていたことが書かれています。

ちひろは、戦争中に日一日と暗く恐ろしい世の中に変わっていき、戦争が終わってなにもかもなくなった光景を見て、本来あたりまえのようにあった木や花などの自然が人々に幸せを与えてくれていたことに気づきました。戦争の後は経済発展によって、またもや人の手で自然が壊されていく中で、本来、人間にとっての豊かさが何なのかを絵を通じて伝えることに生きがいを感じるのだと、次のように述べています

「青春時代のあの若々しい希望を何もかもうち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。」

↑青春時代の希望を打ち壊した戦争に、強い怒りを感じる (リンク)

↑青春時代の希望を打ち壊した戦争に、強い怒りを感じる (リンク)

人間が木や花などに囲まれて暮らす幸せは当たり前のものではなく、とても尊いものだというメッセージを後世に残そうと考えたちひろは、より高い絵の技術が必要だと考え、特に念入りにデッサンをするようになりました。やがて、人間の体ならどんな姿でも描けるレベルまでになり、モデルなしで生後10ヵ月と1歳の赤ちゃんを描き分けたといいます

ちひろの特徴的な色彩は、書道や伝統的な水墨画の技法、さらに、フランス美術の色の使い方などを学んで体得したものだそうで、ちひろは、草や木や花などの自然の豊かさを絵に残すために信州に居を移し、自然の近くに身を置いて、その独特の色彩感覚によって、自然が与えてくれる優しさと美しさを描き出していきました。

 

↑自然の中に身を移し、その独特の色彩感覚を身につけた (リンク)

↑自然の中に身を移し、その独特の色彩感覚を身につけた (リンク)

ちひろと同じように、自然を壊してまで物質的に豊かになる必要はないという考えを広め、世界的に共感を呼んでいる一人に、ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカがいます。

非常に貧困な家庭に育ち、大統領になったときも、その収入の大半を寄付にまわし、同国の平均年収程度しか手元に残さず、非常につつましやかな生活を送っていたムヒカは、世界一貧しい大統領とよばれていました。

ムヒカは、経済的にどんどん成長するために、環境を破壊して得た物は、人をひとつも幸せにしないと主張し、オンラインメディアHUMANのインタビューに答えた映像の中で、「何かを買ったからと言って、幸せになることはない。幸せはインサイドにある」と、自分の頭を指さし淡々とした口調で語っています。

「私が声を大にしてお薦めするのは、資源の浪費をやめることだ。大きな荷物を捨てて身軽になろう、どこにも行く必要はない。」

ムヒカは元々農夫で、大統領になってからも水道の通っていない「倒れそうな農場」で生活していたといいますが、ちひろやムヒカ大統領が経済的な豊かさが幸せをもたらすのではないというのは、ハーバード大学における75年にわたる研究においても証明されています。

↑お金で幸せが買えないことは、様々な組織の研究で立証されている (リンク)

↑お金で幸せが買えないことは、様々な組織の研究で立証されている (リンク)

「幸せになる方法」がテーマのその研究では、金銭的に豊かになることが本当の豊かさなのか、本当の幸せなのかについて研究をしており、現在その室長である心理学者のロバート・ウォールディンガーは、TEDトークのなかで、このように断言しています

「今の若者に幸せになるための方法を尋ねたら、その80%がお金持ちになることだと答え、50%が有名になることと答えた。でもそれは間違っている。」

ハーバード大学の研究チームが75年をかけて724名の男性を対象に、生活から仕事、そして健康状態までの記録をとって分析した結果、「人々を幸せにするのはお金や名誉ではなく、人間関係だ」ということが明らかになりました。名誉でもお金でもなく、より多くの人と話し、つながりを持った人たちが最も幸せを感じていたのだそうです。

↑若い時は本当に価値のあることになかなか気づかない (リンク)

↑若い時は本当に価値のあることになかなか気づかない (リンク)

ちひろも自然を描くと同時に、子どもを中心とした多くの人物を描きました。ちひろの描く人物は、普通の人間が普通に生活している場面、例えば木登りや食事、お風呂などを選んで生き生きと表現されています。自然の中で家族や周りの人々と過ごす、ありふれた毎日にある温かさが感じられるものになっており、ちひろ自身、人とつながっているからこそ描けるのだと語っています。

「夫がいて子どもがいて、私と主人の両方の母がいて、ごちゃごちゃのなかで私が胃の具合が悪くなって仕事をしていても、人間の感覚のバランスがとれているんです。そのなかで絵が生まれる。大事な人間関係を切っていくなかでは、特に子どもの絵は描けないんじゃないかと思います。」

↑まずは良好な人間関係を築いて、その当たり前を絵にすればいいんじゃないかな (Kat Grigg)

↑まずは良好な人間関係を築いて、その当たり前を絵にすればいいんじゃないかな (Kat Grigg)

物質的な満足を得た時はドーパンミンが興奮を与えてくれますが、ドーパミンは幸福感をもたらすものではないため、物を買うときに人々が幸福感を期待するのに反して、結局、物では幸福感は得られないのだそうです。

いわさきちひろは、物やお金や名誉が人々に平和や幸せ、優しさをもたらすものではなかったことを予測していたかのように、今では貴重となってしまった昔の日本の、自然と人とつながりあった何気ない日常を描写し、私たちに残してくれました。

今、彼女の絵と向き合うことで初めて、私たちに幸せをもたらす豊かさとは、優しく美しく、そして平和なことだという感覚を取り戻す人は少なくないのかもしれません。

 

参考書籍
・松本猛「母ちひろのぬくもり」講談社 1999年
・ケリー・マクゴニガル「スタンフォードの自分を変える教室」大和書房2012年