ストーリー

One Life, One Thought
Vol. 55

登山家 田部井淳子

生きているうちに、歩けるうちに色んな所に行きたい。残り少ない時間を身辺整理にあてるのはもったいない、遺された人、ごめんよ。

2017/06/15

Illustrated by KIWABI - Junko Tabei

標高8848m、富士山を二つ重ねても頂上に届かないほど高い世界最高峰のエベレストに、女性として初めて登頂に成功したのが日本人であったことをご存知でしょうか。

1975年に世界初の女性エベレスト登頂者となった田部井淳子は、初対面でも古くからの知人のように話しかける気さくさと、にこーっと笑う愛嬌のある笑顔で人気者となり、メディアに頻繁に出演したり、多くの著書を残したり、男社会だった日本の登山界を変えたとして、内閣総理大臣賞などにも選ばれました。

↑冒険心があるのは男性だけではない (リンク)

↑冒険心があるのは男性だけではない (リンク)

ママさんクライマーとして、女性だけの登山隊などを設立し、多くの山に登頂を果たしたり、福島の高校生を富士山に連れて行くなど、震災でダメージを受けた故郷を活性化させる活動に力を尽くしている頃に、田部井はガンに侵されてしまいます。

「“くじ”が当たったのよ。宝くじのように当たって嬉しいものじゃなくて残念ね」と本人は表現したのですが、1981年以降日本人の死因のトップであり続けているガンは、無情にもエベレストに加え、7大陸最高峰の全てに登頂した田部井にも容赦なく襲い掛かり、2013年、彼女に宣告された余命は6か月でした。

↑3人に1人のその”くじ”は、誰もが引き当ててしまう可能性がある (リンク)

↑3人に1人のその”くじ”は、誰もが引き当ててしまう可能性がある (リンク)

人は崖っぷちに立たされた時に本当の”人となり”が出ると言われている通り、実際の崖っぷちを登り続け、常に自分を厳しい状況に置いてきた田部井はガンと宣告されても、「そうか、ついに私の番が来たか」と事実を自然と受け入れ、さらに、「山の中での遭難に比べたら、癌の治療の方が恵まれている」という発言をするほどのタフさを見せました。

30代、40代のうちに、すでに3回ほど山で死にそうな体験をし、無事に生還してきた彼女は、余命を宣告されても、呆然となり頭がまっ白になるのではなく、すぐに思考回路のスイッチを切り替え、 「さあ、それじゃあ残された時間で何をしよう」と前を向くことができたそうです。

↑絶体絶命を経験したからこそ、崖っぷちでも前を向いていられる (リンク)

↑絶体絶命を経験したからこそ、崖っぷちでも前を向いていられる (リンク)

遠征登山は何も問題がない日はないと言われるほど過酷で、標高が高く酸素の薄い中、チームメンバーと密な連携をとり、日々起こる数々の問題を解決しながら登っていかなければいけないのですが、「まだ見たことのない世界を見てみたい」という好奇心が、登山家たちを山に向かわせる原動力となっているのだといいます。

↑未だ知らない世界への好奇心が人々を過酷な場所へと突き動かす (リンク)

↑未だ知らない世界への好奇心が人々を過酷な場所へと突き動かす (リンク)

目的地は違えど、未知の世界への好奇心に動かされ、ある場所に向かうことに人生をかけてしまうという点で、登山家に似ているといえるのが宇宙飛行士ではないでしょうか。

宇宙航空開発機構(JAXA)は世界の宇宙飛行士試験の中で最も難しい課題を受験者に課すことで有名で、受験者をグループにわけ、何日かの間、限られたスペースの室内に閉じ込めて共同生活をさせて、その様子を24時間監視したり、突然受験者を直径1メートルのボールの中に閉じ込めて、その反応を見たりします。

世界で一番厳しい試験を見事突破し、若田光一氏に次ぐ国際宇宙ステーション(ISS)の日本人長期滞在記録を持つ野口総一宇宙飛行士は、他の優秀な受験生と比べて自分が優れていたと思うのは何かと聞かれたところ、全ての試験で冷静に決断することができたことだと答えました。

エベレスト登頂の時に、登山隊の副隊長として挑んだ田部井も、雪崩が隊を襲い、一時は「もうダメだ」と諦めそうになったそうですが、田部井は登頂の可能性を冷静に判断し、その歩みを止めることはなく、隊長が下していた「下山」の判断を退け、見事偉業を達成したのです。

↑過酷な状況下でこそ、冷静な判断が求められる (リンク)

↑過酷な状況下でこそ、冷静な判断が求められる (リンク)

「ベッドでじっとしていても一日、頑張って自然の中を歩くのも一日」と、手足が麻痺しながらも田部井は抗がん剤治療の合間に、山に登ったりセミナーを開いたりするアクティブな闘病生活を決断します。(1)

余命宣告に落ち込むことなく、平気で受け入れられたのは、動けるうちにいろいろなことをしてきたからだと思った田部井は、今までの生活を可能な限り続けるためにもあまり騒ぎ立てたくないと、病のことを家族とごく数名の親しい友人にしか告げず、人前では普段通り明るく振る舞ったそうです。

しかし、抗がん剤治療が3回目を迎える頃になると、洋服を取りに二階へと階段を上るのでさえ辛くなってしまい、途中で休息を取り、両手をついて犬のように進まなければいけなくなるほど、薬は田部井の体力を奪っていきました。

↑こんなに辛くなるとは、薬の凄さを思い知った気がした (リンク)

↑こんなに辛くなるとは、薬の凄さを思い知った気がした (リンク)

退院後に訪れた山では、見慣れた風景も眩しいほど新鮮であったそうで、一歩一歩登り、やっとの思いで辿りついた頂上では、ベンチにゆっくりと腰を下ろし、いつも支えてくれる夫の政伸氏と弁当を食べて、次のように感じたと言います。(2)

「こういう穏やかな瞬間を今まで何度も何度も過ごしてきたけれど、これからももっと続けたいと思う。あと10年、いや5年でもいい。密度濃く一日一日を過ごせば、5年の倍の長さを味わうことができるかもしれない。」

↑辛いことはたくさんあったが、山に来られたという嬉しい思いの方が強い(リンク)

↑辛いことはたくさんあったが、山に来られたという嬉しい思いの方が強い(リンク

田部井の山登りの原点は、「こんな景色見たことない」と小学生だった彼女の心を奪った那須の茶臼岳の地面からもうもうと煙が上がる岩石や自然の凄さと、引率の先生にかけられた言葉でした。

「登山は競争じゃない。ゆっくりと自分のペースで登れば良いんだよ。」

運動が得意な方ではなかった田部井は、体育の得意な人もそうでない人も、競い合うのではなく、一緒に頂上に向かっていくという考え方にすっかり魅了され、「もっと未知の世界を見てみたい」と世界中の山に登り続けました。

還暦を超えて、ガンで余命を宣告されてもその思いは変わらず、「生きているうちに、歩けるうちに色んな所に行きたい。残り少ない時間を身辺整理にあてるのはもったいない、遺された人、ごめんよ」とチャーミングに笑っていた田部井のように、たとえ崖っぷちに立たされたとしても、前を向き、自分の好きなように決断した人生を歩んでいきたいものです。

 

参考書籍
1.田部井淳子 「それでもわたしは山に登る」 (2016年、文藝春秋) Kindle 1223-1262
2.田部井淳子 「それでもわたしは山に登る」 (2016年、文藝春秋) Kindle 1287-1303