ストーリー

One Life, One Thought
Vol. 22

ジュリー・アンドリュース

奇妙なことですが、もう歌うことができないことが、ある意味幸運だったと感じることがあります

2016/10/27

Illustrated by KIWABI - Dame Julie Elizabeth Andrews

映画「サウンド・オブ・ミュージック」は2015年に製作から50周年を迎え、昨年のアカデミー賞授賞式ではレディー・ガガが、この映画の表題曲である「サウンド・オブ・ミュージック」や「私のお気に入り」などのメドレーを歌いました。レディー・ガガはこのステージに上る10日前に、映画の中で主人公として歌っていたジュリー・アンドリュースに電話をかけ、次のように言ったそうです

「私は練習を重ねて、全てをあなたの歌ったキーで歌っています。あなたを崇拝しているから。だからあなたのキーで歌うのです。」

↑幅広い世代に共感を生む「サウンド・オブ・ミュージック」(リンク)

↑幅広い世代に共感を生む「サウンド・オブ・ミュージック」(リンク)

この映画の中で、主人公マリアが、恋をしたことで修道女という道を閉ざされても愛する男性と結ばれるために新たな道を進む決断をし、その時に、“When the Lord closes a door, somewhere He opens a window.”(神様はある扉を閉じた時に、どこかの窓を開ける。)という言葉をマリアが述べるシーンがあります。

その素晴らしい歌声による活躍で、大英帝国勲章を受賞しているジュリー・アンドリュースも、1997年に映画「Victor/Victoria」のブロードウェイショーに出演していた頃、声帯に見つかった結節の手術をした後、歌うことができなくなってしまうという辛い経験をします。手術から10年以上経て、このマリアの言葉が自分自身の人生にとっても大きな意味のあるものだと気がついたと言います。

↑神様はある扉を閉じた時に、どこかの窓を開ける (リンク)

↑神様はある扉を閉じた時に、どこかの窓を開ける (リンク)

ジュリーは、歌うことができなくなった後に出版した自伝の中で、自分にとってオーケストラと一緒に歌うことはこの上ない喜びであり、そんな素晴らしい体験ができている自分はこの世で一番の幸せものだと感じていたと、ステージで歌うことの素晴らしさを振り返っています。

「それはセックスのように素晴らしいのです…クライマックスの前というのは。それは広大な海のように圧倒的であり、乳児にとっての母乳のごとく滋養があり、アヘンのように中毒性があるのです。」(1)

↑オーケストラで歌うことはセックスのように素晴らしい (リンク)

↑オーケストラで歌うことはセックスのように素晴らしい (リンク)

「オーケストラと歌うこと以上にワクワクすることはない」と語るジュリーにとって、歌手であることは人生そのものでした。それが突然できなくなってしまった彼女は、自分がバラバラになってしまいそうなほどの苦しみを味わったと述べていますが、歌の道を閉ざされて絶望に暮れていたジュリーに、新たな窓を気づかせてくれたのは家族であったと言います。

あるとき家族に、「物語を書いて」と頼まれたことが今の自分にとってのかけがえのない執筆活動の始まりだったといい、そこから新たな道を進み始めることになったのだそうです。

↑人生で一番ワクワクすることを突然失ったジュリー・アンドリュース (リンク)

↑人生で一番ワクワクすることを突然失ったジュリー・アンドリュース (リンク)

一緒に絵本を書き始め、「歌とは違う方法でママの声を使う方法を見つけたじゃない!」という娘のエマの言葉は、ジュリーにとって大きな力となりました。

もともとジュリーは大好きな父親が詩を愛していたことや、歌は自分の伝えたいストーリーを伝えるための一つの手段だとも考えていたため、たとえ歌うことができなくても、自分の「声」を「文字」にして、世界に発信することができると気づいたと言います。

娘のエマだけではなくジュリーの夫も、彼女が本を書き始めた頃、「素晴らしいアイデアだからこれからも続けて書くといいよ」と励ましてくれたと言います。あたたかい家族の支えによって執筆活動を続けてきたジュリーがエマと共同執筆した絵本は昨年30冊を超え、シリーズ絵本「The Very Fairy Princess」となり、カナダのアニメ制作会社「ネルバナ」によってアニメ化されることが決まりました。

↑声から文字へ「自分の想いを伝える別の手段」(リンク)

↑声から文字へ「自分の想いを伝える別の手段」(リンク)

ジュリーにとって、歌えない絶望は果てしなく深いものでした。しかし、絵本の執筆と演劇の演出に光を見つけ、80歳になった昨年、再び背筋を伸ばしてオスカーの舞台に帰ってくることができたジュリーは、歌うことのできなくなったときからの自分を振り返って、次のように述べています

「あの手術は辛いものでした。長い間、その現実から目を背けようとしていました。それでも、何かしなければいけないと思いました。サウンド・オブ・ミュージックの歌詞の中に、”a door closes and a window opens”とありますが、それは正しかったのだと思います。声を失っていなければ、こんなにも多くの本を書くことは無かったでしょうし、執筆という楽しさを知ることもなかったでしょう。」

↑最高の楽しみを失って見つけた、新たな「最高の楽しみ」(リンク)

↑最高の楽しみを失って見つけた、新たな「最高の楽しみ」(リンク)

車輪の下」という小説で有名なドイツ人作家ヘルマン・ヘッセは、「神が我々に絶望を送るのは、我々を殺すためではなく、我々の中に新しい生命を呼び覚ますためである」と述べていますが、それまでの自分を崩されるような経験であっても、新たな活躍の道を見つけることができるから、人間は途絶えることなく、進化し続けていけるのかもしれません。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の主演を務めたことで有名なマイケル・J・フォックスも、俳優として絶頂にあった1991年、30歳という若さでパーキンソン病が発覚し、病を隠しながらテレビドラマの主演を務めていましたが、1998年にそのことを公表し、2000年の「スピン・シティ」というドラマを最後に俳優業を引退しました。

↑神は超えられない試練は与えないものだ (リンク)

↑神は超えられない試練は与えないものだ (リンク)

マイケル・J・フォックスは、結婚生活のごく初期にパーキンソン病が発覚したため、結婚生活は破綻してもおかしくないと感じていましたが、妻のトレイシーはいつでもマイケルのそばにいて支えてくれたと言います。

彼はトレイシーについて、「パーキンソン病はいつも僕を箱の中に入れ、トレイシーはその箱の折り返し部分を開け、逆さにしてうまく僕を出してくれる」と述べており、妻の存在の大きさを示しました。

妻の支えもあり、「いつも上を向いて」生きていくことができるようになったマイケルは、パーキンソン病の研究を助成するために、マイケル・J・フォックス財団を設立したり、自伝を執筆して、その売り上げのすべてを同財団に寄付するという活動を行っています。(3)

↑本当の苦悩は人生の様々な方向性を見せてくれる (リンク)

↑本当の苦悩は人生の様々な方向性を見せてくれる (リンク)

障害や病気など、自分ではどうにもならない不運なことによって道が閉ざされて、八方塞がりとなって立ち尽くしているような絶望を感じても、周りの人の言葉に耳を傾けることで、新たな窓が開いていることに気づくことができるのでしょう。

今となっては、ジュリーは「奇妙なことですが、もう歌うことができないことが、ある意味幸運だったと感じることがあります」とも述べています。

人生が再び動き出した先には、絶望の前の自分にはなかった、感謝や喜びによって心から取り組める生きがいを持った、幸運な自分がいるのかもしれません。

 

 

参考書籍
1.Julie Andrews Home: A Memoir of My Early Years (English Edition) Weidenfeld & Nicolson (2012) [Kindle版]pp.4134−4140
2.マイケル・J・フォックス『いつも上を向いてSBクリエイティブ (2010)p.7
3.マイケル・J・フォックス『いつも上を向いてSBクリエイティブ (2010)p.262