ストーリー

One Life, One Thought
Vol. 93

杉原千畝

騒がれるようなことをしたのではない。あくまでも私の意思である。

2018/08/09

600万人近くのユダヤ人の命が失われた第二次世界大戦中、リトアニアでも、約20万人ものユダヤ人の命が迫害によって失われました。

ユダヤ人のため、当時外交官としてリトアニアに赴任した杉原千畝(すぎはらちうね)が独断で発給した日本行きのビザは2,000枚を上回ります。およそ6,000人を超える人々を国外へ脱出させることになったそのビザにより、生存者の子孫を含めてこれまで10万人近くの命が救われたそうです。

戦時中の迫害から自らの危険を冒してまでユダヤ人の命を救ったとし、杉原は「諸国民の中の正義の人」という称号を日本人として唯一、受け取っています。

↑戦時中に他国民のために行った行動は、現在まで続いて讃えられている(リンク

今では世界的に評価されている杉原ですが、終戦直後、シベリアに2年間抑留された杉原は、帰国後には日本政府の意向に背いた人物であることを理由に、外交官としての職を失うといった苦汁を舐めさせられました。

日本政府の意向に背けば自分の立場が悪くなることが分かっていながら、なぜ杉原がビザを発給し続けることがができたのか、その理由を息子の杉原伸生氏は次のように述べています

「僕も父に『なぜユダヤ人助けたの?』と聞いたことがあります。すると『かわいそうだから』。その一言です。別に自分が英雄になろうと思って人を助けたとか、手を貸したとか、そういうことではなかったんです。」

↑ビザを発給し続けたのは、英雄になろうと思って人を助けたとか、手を貸したとか、そういうことではない(リンク

器用な生き方とは言えませんが、杉原は自分の立場や生活が悪くなることが分かっていても、自分の意思を大切にして生きてきた人物です。

遡れば杉原が外交官になったのも、「医者になれ」という親の意見に背き、医学部受験の答案を白紙で提出するといった強行で押し切って、英語の教師になるために上京したことが始まりでした。

仕送りのない中で学費と生活費に困り、外務省留学生試験を受けることにした杉原は、晴れて外務省留学生となると、ロシア語を必死で学び、語学の才能を開花させ、ロシア語の講師となります。

そして、杉原が26歳の時にまとめた「ソビエト連邦国民経済大観」が本省に認められ、外交官の道が拓けたわけですが、こうした一つ一つの自分の意思に基づく行動が、のちに多くの命を救うことにつながるのです。

↑親の意見に背き我が道を歩いた杉原は、語学の才能を認められ外交官への道を歩んだ(リンク

外交官のキャリアを着実に積んでいった杉原は、第二次世界大戦直前の1939年、リトアニアへ家族とともに赴任をします。

それからすぐにドイツ軍がポーランドに侵攻を始めて第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍からの迫害に堪え兼ねた多くのユダヤ人がポーランドからリトアニアに逃げて来るようになりました。

日に日に情勢が緊迫して行く中、1940年7月18日早朝、命がけで迫害から逃げてきた大勢のユダヤ人がビザを求めて日本領事館の周りを囲み、その光景を見た杉原はユダヤ人にビザを発行するため、必死で本省に掛け合ったそうです。

命の危険がすぐそこまで迫っているにもかかわらず、依然としてビザの許可が降りない状況に耐えかねた杉原は、一晩中考えた末にクビを覚悟でビザを発給すると決心しました。そのときのことについて、晩年このように述べてます

「全世界に陰然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みをかってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にビザを拒否してもかまわないのか、それがはたして国益にかなうことだというのか。苦慮、煩悶のあげく、私はついに人道・博愛精神第一という結論を得た。」

↑杉原は目の前の命を守るため、職を賭して忠実に実行した(リンク

決断をしてからの杉原は、1ヶ月間、休む暇もなくビザを発給し続け、その間に発給したビザは2,139通にもなると言います。

フラフラになりながらも自分の判断でビザを発給し続けた杉原を支えた妻の杉原幸子氏は、当時を振り返り、次のように述べました。(1)

「あの時、夫が私に言った、『私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く』という言葉でしょう。強いキリスト教信者ではなかったのですが、神に背くのは、ひいては人道にもとるということであり、《神は愛であり、愛は神である》と聖書にあります。異邦人であろうと人間と人間の愛は世界の幸せにつながるという、夫と私の考えは間違ってはいなかったと思います。」

↑「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」(リンク

このようにして、自分の外交官としての職を賭けて、救ったユダヤ人たちは、杉原という日本人に救われたことに関して、子供の世代から孫の世代までと時代を超えて感謝の気持ちを語り継いできました。

戦後60年以上を経過した現代でも、ユダヤ人は杉原がビザを発給したことに感謝の心を持っているといいます。それは、感謝の心を忘れないユダヤ人の風習であることだけではなく、杉原の自分の信念を曲げない姿勢に心を打たれたからだと言えます。

杉原のこうした功績を後世に伝えるためにつくられた岐阜県加茂郡に建てられた杉原千畝記念館では、そこに展示するためのビザが全く集まっていませんが、それは、ビザを発給された人々がビザを大切にするあまり手放さないからなのだそうです。

↑自分の命を救った大切なビザは杉原とのかけがえのない思い出の一つ(リンク

杉原にビザを発給された人たちは命の恩人である杉原が日本帰国後に外務省をクビになった経緯を聞き、抗議するとまで言い出しましたが、その時に杉原が発したのは「騒がれるようなことをしたのではない。あくまでも私の意思である、これでよい」という言葉でした。(2)

杉原のように人のために自分の信念を貫いて行動することは、たとえ予想不可能な苦難がふりかかっても、自分の意志でやったことだと受け入れる覚悟がなければできないということでしょう。

他人のために自分を捨てられる覚悟がなければ、歴史に名を残し、いつまでも人々の心に残るような偉業を成し遂げることはできないのです。

参考資料)
1. 杉原 幸子「新版 六千人の命のビザ」(大正出版,1994) p.199
2. 杉原 幸子「新版 六千人の命のビザ」(大正出版,1994) p.184